ひさびさに、溜飲の下がる思いで不思議とすっきりした記事に出会いました。
nanapiという生活の知恵があつまる情報サイトをご存じの方は多いと思います。
私は冠婚葬祭の関係で何か調べものしていて、このサイトに巡り合い、それ以来何かと便利に使わせてもらってます。
そのうち、このnanapi経営者はどんな人だろうと興味をもち、まぁ今では割と多く見かけるような「社長ブログ」があることに気がつきました。
nanapi自体がゆるいというか、自由に記事化されている雰囲気でそれ自体、「いいなぁ、なんか」とずっと感じていたので、
社長の考え方というものに関心があったのです。
で、そのけんすうさん(社長さん)のブログをときどき眺めては、オモロイ考え方する人だなぁ・・・
とほとほと感心しつつ、どこかゆるいキャラクタを思わせるところがまたユニークでこっそりと社長ブログを楽しんでおりました。
で・・・また、で、ですけどある時さらにオモロイ記事に出会ったのです。
許可より謝罪、というのはけんすうさんのポリシーのように理解しました。
許可というのは、あなたが会社勤めなら普通にわかることでして・・・
何かのアクションを起こすとき、特に費用も人も時間もかかるような仕事を進める場合、必ず上司の許可を取りますよね?
企業によっては、上司だけではなく、上司の上司だったり、社長までだったりといろいろあるわけですけど、自分だけの判断でモノゴトを進められることはごくごく稀であり、且つ限定的範囲にとどまっているのが会社というものの当たり前の性格でもあるわけです。
なぜかというと、資本主義社会にある企業の目的は利益を得ていくことが第一義にあって、合理的且つ効率的にそれを達成するためには、組織というものが階層的に出来ていて、その中でモノゴトを推し進めることが合目的的であると強く信じられてきたからに他なりません。
一般にそれなりの規模の企業においては、根回しに始まり、稟議やオーソライズのための会議などが設定されていることが普通です。
それで、このnanapi社長さんの方針が素敵すぎます。
すなわち・・・
行動指針はない
と言い切っておられ、なぜ許可を取るよりも謝罪にポイントを置いているのかも、前述で紹介した記事で理解できます。
思うに、許可というものは、個人ではなく会社全体で責任を負うためのある種の防御機能のようなものです。
ただ、この許可をいちいちとることによるメリットもあれば、デメリットもあるというわけです。
そのこと自体も、企業人であるあなたであれば当たり前とお感じになるでしょう。
因みに、Facebookではテスト用サーバがないという話も紹介されています。
エンジニアは本番サイトでごにょごにょとコードを作り、いきなり公開というわけです。
こういった思い切ったことができる理由のひとつには、社員への絶大な信頼があってこそになりますが、それにしてもすごい。
けんすうさんは、もちろんいろんな批判などがあることを承知のうえで任せているという話です。
世間一般の企業では、常にリスク回避のほうへ判断がいきがちで、問題が起こってどうにもならないなら謝罪せよ、というモードにはなかなか切り替えられるものではありません。
それが企業生命を守るうえで必須のノウハウであることを、歴史的にも知っているからですね。
でも、それでこれからの時代に通じるかというと、なんともあやふやな意識になってしまいます、私の場合ですけど。
しかし・・・なんにせよ、なぜかスカッとするんですね、「許可より謝罪」の記事は。
ここには、失われている本来の価値が息をしている。。。
そういった思いになるのは私だけでしょうか。